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つれづれなるまゝに、日くらし画面に向かひて

オートメッセに行く ①

あれは体調は回復したがバイトが決まらずただ時間だけが穏やかに流れる2月10日の事だった。

昼過ぎ、暇を持て余した僕は自動車整備士の問題集をだらだらと解いていた。すると中学からの大親友から1通のラインが届いた。

そこには”ヤバいって、”という文字と一緒に貼られたURL。それをタップすると現れたのは爆乳の白人女性。では無く真っ赤な1台のFerrari 488 Spiderだった。シルバーの深リムのホイール、バチバチのツラ、ベタベタな車高。なんでそうなってるのかさっぱり分からない。確かにヤバかった。

”いや〜強烈だな
大阪で実車見てぇ〜”
なんて言うもんで、どう言うことか詳しく聞いてみると大阪オートメッセ2023で実際に展示されているとの事だった。

しかも開催日は10、11、12日の3日間。とっくに終わっているのであれば残念でした。で終わらせる事ができるが、幸い頑張れば行ける状況にあるのでこれは行くしかないと思った。

最近下がり始めていた”好きなモノに対する情熱”を取り戻すため最終日の12日に僕らは大阪へと向かった。

高速道路と、ニュートラムを乗り継ぎ辿り着いたインデックス大阪。

早速目に飛び込んできたのは真っ赤なFerrari F40と数台のスーパーカー。もうそこから様子がおかしかった。

そして僕らは会場に入った。

一番最初に僕らを迎えたカスタムカーはブリスターフェンダーを身にまといえげつないほどにワイド化された黄色いダッジ・チャレンジャーだった。色んな角度からジロジロ見ているとスタッフに声をかけられた。

そこでこの様なカスタムカーはアームやサスペンションを決め、足回りのストロークや干渉の有無などを確認し、フェンダーのツラに合う絶妙なサイズのホイールを選択しているということを学んだ。最初の最初からとても大きな学びを得る事ができたのだった。

アクセラのエンジンチェックランプを消す

僕の愛車は14年落ち40万円で買ったマツダアクセラだ。ちょうど1年ほど前に、今まで乗っていたムーヴでは手狭になったので乗り換えた。

アクセラにした理由は、ハッチバックに乗りたかった事。安かった事。マツダのディーラーで友人が整備士をしているので壊れても部品を寄せてくれる事。この3つだ。


期待を裏切らない僕のアクセラは、ある日の仕事帰り繁華街周辺を低速で流している時にエンジンチェックランプを点灯させ、僕とアクセラとの戦いが始まった。その事について書いていこうと思う。


診断機を繋ぐと出てきたコードはP0171。燃料、薄いっす。ってやつだった。

整備士の友人曰く考えられる部品は2つ。空燃比の調整を司るエアフロセンサーとA/Fセンサーだ。

しかしこれがまた純正部品が滅茶苦茶高い。中古車にこれは勿体無いので社外品を入れる事に。(エアフロセンサー 純正品17,754円 社外品5,170円 A/Fセンサー 純正品24,772円 社外品8,700円)

部品の交換が完了し、さあこれで戦いは終わりだと走り始めたとき。エンジンチェックランプは再び点灯したのだった。

どうやら原因は他にあるようだった。吸気系統のどこかに穴が空いて余計に空気を吸っているのだろう。

診断機を繋いでA/Fの波形を見ると薄いところに張り付いている。必殺パーツクリーナー攻撃をすると波形が濃い方へ振れた。先程の読みが当たったようだった。

つい先日重い腰を上げ、インテークマニホールドを外してみた。裏返すとバキュームホースが破れていた。原因はこれだった。14年もの長い間エンジンの熱にさらされくたびれたのだろう。ひとまず部品がないので、ホースの穴をメッシュテープで塞ぎ部品を組み上げた。

エンジンをかけるとアイドリングの調子が悪い。診断機を繋ぐとP0300。燃料に上手く火が着かないっす。だった。

翌日、やり直すとバキュームホースが一箇所外れていた。そこから燃料に火が着かないほどの大量の空気を吸っていたらしい。

再び組み上げ神に祈りながらエンジンをかけると正常にかかりランプも点灯しなかった。

その後峠道、高速道路など様々な条件で走ってみたが異常は出なかった。アクセラと僕の長い戦いに一つの区切りをつけたのだった。

漢方をキメてみた

明日から新しい月が始まると張り切っていた2月28日。僕は風邪をひきこじらせた。止まらないくしゃみと鼻水。やがて喉も痛くなり熱が出てしまった。

うわー。やらかしたわ。こないだコロナと後遺症で病院通いしたばっかじゃし、市販の漢方でなんとかしてみるか。と思いついたのだった。

市販の漢方でなんとかしてみようと思いついた理由は”今はメーカーや専門家が情報を出してくれているしドラッグストアに行けば手に入る。自分の身体であれば自分で判断し治療することもできるのでは無いか。”と友人には偉そうに話したが先ほど書いたとおり最近まで病院通いしていたばかりなのであまり病院に行きたくなかったのだ。


僕が実践した方法だが、身体の状態に合わせた漢方を選択すると言うことだ。風邪は身体が冷えた状態から熱を持った状態に変化するらしく、冷えた状態には温める物。熱を持った状態には冷ます物を選択するらしい。

始め寒気と酷い鼻詰まりがあったので、鼻風邪が得意で体を温める効果のある小青竜湯を購入し飲んでみた。しかし効果は今ひとつ。もうひと押し欲しかったので最強とも言われている麻黄湯を購入し飲んでみた。すると熱が上がり発汗した後、熱が下がった。ネットに書いてあった事は本当だった。
しかし翌日の夜、熱がぶり返したので手持ちにあった喘息や後鼻漏にも効果があり体を冷ます効果のある麻杏甘石湯と先程の小青竜湯を飲んでみた。すると熱は楽になったのに鼻の奥だけ熱をもった感覚があった。どうやら温める物と冷ます物を一緒に飲むのは微妙なようだった。
そしてその翌日、鼻水が粘く鼻が熱を持っているのが確認できたので副鼻腔炎などに用いられ、冷ます効果のある辛夷清肺湯(チクナインやジェネリック)を購入し麻杏甘石湯と合わせて飲んでみた。すると地獄のような苦しさから解放された。

身体の状態に合わせて選択できる所が漢方の難しさでもあり魅力なのかもしれない。

金額的には診察を受けた後薬を貰うのと同じくらいかもしれないが、状態に合わせた漢方が揃った事と、一般的な薬より効果を感じられた事、副作用が感じられなかった事が大きかったと思う。


今回は少しばかり無茶をしたが、これを見た人が実践する際はくれぐれも漢方薬局や登録販売者等の意見を参考にして頂きたい。

さっき見た夢の話

ついさっき、父の謝罪を母が受け入れず、その様子に胸を締め付けられるという夢で目が覚めた。


思った事など、忘れてしまわない為に書いていこうと思う。


僕は高校くらいの時まで、トラック運転手の父とパートの看護師の母と3人で古い団地の一室で暮らしていた。

今思い返せば僕が幼い頃から割と激しい夫婦喧嘩があったように思う。そして思春期真っ盛りの中学生の頃僕も親に良く反発し、父とも激しい喧嘩をした事がある。

そんな父は高校の頃離婚し実家で暮らしていた。しかし、酒を飲めるようになったから一緒に飲みたいなという夢も叶わずハタチの時に亡くなった。

今でも、本当に悪いことをした。父はきっと辛かったんだろう。と今でも思う事がある。僕が父親になった今、余計に思うのかもしれない。

ただ、もう十数年前の事でどれが最近の事だったか忘れてしまったが、思い出される父の顔はいつも笑っていたように思う。そして、その景色はファンカーゴの車内で父は運転し二人はラジオを聴いている。

だから、自分を責めすぎるのも良くないのだろうとふと思った。


今僕が出来ることはただ一つ。幸せに生きる事だ。

そして子供と酒を飲む。これだけは叶えたいと思う。

大阪に行く

2022年の年末。僕はコロナウイルスとその後遺症で地獄を見た。そして迎えた2023年、なんとか命拾いした僕は自分にとって大事なものを再確認するため大阪へ向かったのであった。

 

その時のことを思い出しながら書いていきたいと思います。

 

29歳の僕はこれまで、人間関係に悩んで自動車の整備士を辞めて以来職を転々としてきた。はじめは整備士に変わるものにする。絶対に結果を出す。そう奮起するものの中々上手く行くものではなかった。

 

そんな中僕はコロナになってしまった。インフルエンザの時のような倦怠感で思うように動けない。そして、睡眠障害で寝られない。生きててこんなに辛いものが有るのかと思った。

 

なんとか迎えた2023年。症状も少し落ち着いたので高校の同級生の居る大阪へ向かった。

 

彼は高校に入学し、教室に入ったとき一番最初に話したやつだ。僕と彼の2人だけが席のブロックからはみ出していたのだった。それ以来ずっと仲良くしてもらっている。そんな彼はいま自分の好きな物でメシを食っている。

 

そんな彼に会って、何かヒントを貰いたかったのだ。

 

彼と会ったのは約1年ぶりだったが、そこで流れる時間は何時もと変わらない物だった。しょーもない話が僕の心を癒やした。

 

そしてこう切り出した。

俺、コロナで死にかけたけー、命拾いした思うて、やりたいこともう一回よう考えてんよな。出来る事ならとりあえずバイトして、取れんかった一級の勉強して、取って、また整備士やりてぇなぁ。

 

すると彼はこう答えた。

うん。俺はそれでええと思う。俺も頑張るから死ぬ気で頑張れ。

 

苦労しているのは自分だけじゃなかった。彼も苦労を乗り越えて今があるのだった。どれだけ時間が掛かるか分からないが自分も思い描く姿になりたい。そう思うことのできた大阪の旅であった。