今は常に通過点
最近、”どう生きていくべきか。”と考える事がよくある。今回はその事について少し書いていこうと思う。
小学生の頃、年が経つにつれ自分の成長が顕著に現れ、それがとても楽しかったように思う。伸びる身長、足し算から掛け算など増える知識。また、テストや成績など自分の頑張りが”点数”として具現化されるのも自分のやり甲斐へと繋がった。
そこから中学生、高校生、専門学生となっていき、小学生の時程ではないがそれでも自分の成長を感じられるのが面白かった。
しかし、社会人となり目標としていたディーラーへ入社し店舗へ配属された後、その面白さというものは脆くも崩れ去ったのだった。
新人研修では色々な学びがあり、このような整備士になりたいといった夢も膨らんだが、配属後に待っていたのはマウントの取り合いや新人虐め、ひどいパワハラなどの酷い環境だった。
夢先の事を考える余裕も無いほどに酷い日々が過ぎていった。しかし、もう一年頑張れば状況は変わるだろうと思い頑張ったが、改善される事はなく精神的に限界が来てしまい夢も同時に崩れ去った。
それからというもの、色々な仕事に挑戦した。教習指導員、営業職、作業員。どれもそれなりではあったがしっくりくるものではなかった。
目標を見失っていたのだろう。
僕には身近に目標となるような大人が居ない。
人生の目標としていた祖父は15歳の時、父は20歳の時にこの世を去った。
”どう生きていくべきか”などと相談出来る相手も身近に居なかった。
最も身近で相談できる相手を失うこと約10年。僕は30歳を目前としている。沢山の苦労をしてきたが良いことも沢山あった。父よりも早い25歳で結婚をし、父親となった。そして、祖父よりも早い28歳で家を手に入れた。これはある意味で祖父や父を超えたのではないかと思う。
自分なりにやるべき事はやったつもりなので、祖父や父には天から見守ってもらい、よっぽどヤバかったら助けてもらいたいと思う。
しかし、万が一僕が死んでも僕の命は家、生命保険、学資保険で数千万円に変わり残された家族を支えることができる。決して”0”ではない。
死んでも数千万円。せっかく生きるのならそれ以上の価値を見出していきたい。そして自分の人生に責任をもち、自分で評価し、より良いものにしていきたい。
まずは一級整備士を取得し、夢だった整備士にリベンジしたい。そして何より子供が僕の年齢ほどになった時、僕をはるかに超えられるような環境づくりが出来るよう頑張りたい。
タイムトラベル③
3人での初めてのドライブを終えた僕は、より一層気になる女子と仲良くなりたいと思うのだった。今日は、それからの事を書いてみようと思う。
3人でのドライブから数日、今度は気になる女子と2人でドライブに行きたいと思ったのだった。そろそろホタルが見られる季節だったので、これまで見たことの無かった僕はホタルを見に行こうと計画した。
すると、”お供しましょう∵”とLINEが返ってきた。やった!と言う気持ちと共に、この何とも言えない空気感の返信に独特の可愛らしさを感じたのだった。
そして当日、僕は愛車の紺色のファンカーゴで気になる女子の元へ向かった。そして今度は彼女を助手席に乗せ、僕らのドライブは幕を開けた。
少しお洒落な食事がしたかったのでDiamond Pizza&Coffeeでピザとアイス、ドリンクのセットを注文した。これは功を奏し、これまでシャイで人前であまり食べられなかった彼女も美味しく完食することができたのだった。
腹ごしらえを終えた僕らは、本命のホタルを見るために蛍遊の水辺・由加に向かった。駐車場に車を停めた僕は自前の小型懐中電灯でドヤ顔で足元を照らし、彼女を連れて遊歩道を歩き出した。そこにはまばらに光るホタル達の姿。初めてということもあり僕は感動した。後で分かったのだが彼女の地元はホタルの街のある真庭。近所の川でホタルがブンブン飛んでいるらしい。内心、大したことねーなー。って思ったそうだ。この時のために下見までしていたのに。
思ったより時間が余ってしまったので我が地元の切り札、瀬戸大橋を見に行くことにした。その日は土曜日。ちょうどライトアップしていたのだ。調子に乗った僕はまた小型懐中電灯で足元を照らし、遊歩道を歩いて鷲羽山山頂へ登った。鷲羽山山頂は周りが開けており360°大パノラマで見渡せる僕のお気に入りの場所だった。きれいな景色に彼女も喜んでくれた。そして、夜9時。ちょうど僕らの目の前で瀬戸大橋は明かりを消した。何か特別な事が起こる予感がした。
そして、その日は彼女を送り楽しいドライブは幕を閉じた。
それから、祭りの運営会議で顔を合わす事も多くだんだん仲は深まり、そのお陰もあって僕が部会長を努めた祭りは大盛り上がりで大成功を納めた。より調子に乗ることができたのだ。
祭りが終わってからも、これで終わりたくなかった僕は彼女をドライブに誘い続けた。イオンモールなど、大したところへは行けなかったが彼女と過ごす時間は何時も楽しかった。
なのに、関係は変わらず友達のまま。そう、告白はしていたものの振られ続けていたのだった。
それから時は過ぎ11月4日。そろそろ付き合ってよ。いいよの日で、良いよって言ってよ。なんて言ったけど駄目。納得のいかなかった僕は翌日も会うことにした。
そして忘れもしない2014年11月5日。岡山駅西口の地下駐輪場出入口。
こんなに一緒におって楽しいのになんで付き合ってくれんのん?これで付き合えんとか今までの時間なんなん?納得いかん。僕は大人気なく怒っていた。すると、”そんなに言うならいいよ。付き合ってあげる。名だけの彼女だけど。でも、嫌になったらすぐ別れるよ。”
こうして僕らは付き合うことになった。
ご飯に行きたかったが彼女は卒論真っ最中で行くことが出来なかった。
複雑な気持ちではあったものの嬉しかった僕は自転車を置き、一番に大親友へと電話をかけた。
”俺、付き合えたよ。本当にありがとう。なんか、このまま結婚できたらええな。その時はまた一番に伝えるよ!あと、メシ食ってないんよ。児島駅前のジョイフル行こう。”
そうして僕は色んな気持ちを胸に大親友の待つ児島へと電車に乗りこんだのだった。
ゲロ戦記
最後に会ったの、何時だっけ。会ってるようで会っていない。そんな僕の大親友について今日はだらだら書いていこう。
僕が彼と初めて会ったのは中学1年の頃。これまでぱっとしなかった小学校生活ともおさらばして、楽しい中学校生活を送ろうと意気込んでいた頃だ。
彼はもう一つの小学校の卒業生だった。僕から声をかけたような気がする。その理由は小学校の時に通ってたスイミングでめちゃくちゃ仲が良かったやつに似てたから。なんか、話しやすかったんだ。でもそのお陰で今があるのは本当に有難いね。
僕も彼も一人っ子で車が好き。違うのは彼は大豪邸に住んでいて、僕はボロボロの団地に住んでいたという事くらい。仲良くなるのに時間はそうかからなかった。
ある日の事だった。体育館の舞台袖で不良の同級生が彼に絡んでいた。女性の留学生がホームステイで彼の家に来る事にごちゃごちゃ抜かしていたのだ。あぁ、そんな事言うなよと思いながら彼の顔を見ると暗い顔をしていた。僕はたまらず声をかけた。気にするなよ。そして僕らは肩を組んで体育館の舞台から降り、笑いながら走り出したのだった。そして僕は勝手に彼の事を大親友だと言うようになった。
それからの中学校生活はと言うと、まぁ調子に乗っていた。ガンモドキみたいな顔のうるさい音楽の先生の背中に中指を立て、シンガポールで死んだポールとダジャレを言ったりおいコラおめおめ!と怒る社会科の先生に爆笑した。そして、グラウンド側の校舎、二階の廊下、青い空に向かって”ゲロ戦記ーーー!!!”と彼の横でよく叫んでいた。
今思えば僕はとんでもないやつだった。にも関わらず彼はいつも僕の隣で笑ってくれていた。学校帰りもまた楽しかった。部活の無い日は毎日のように一緒に帰った。彼の家の近くの空地で近所の人に注意されても自転車でドリフトしたり、彼の大豪邸に上げてもらっては現行だったPlay Station 2のRIDGE RACER Vでピンクのゴーストカーで回転ドリフトをやった。
その他にもバスケ部の可愛い先輩やバドミントン部のハーフでとても美しい先輩との淡い恋、映画に出てくるような不良がいる中での学校生活などとても濃い3年間を過ごしたのだった。
父のティアドロップ
今日はふと思い立って実家の団地の自分の部屋から父のティアドロップを持って帰ったのでそれについてだらだらと書いていこうと思う。
父は生前トラックの運転手をして僕ら家族の生活を支えてくれていた。夜、仕事に出ていき早朝帰ってくる。そして昼間は仕事のために寝ている。そんな生活だった。
僕が小学生くらいの時、重たい鉄製の玄関扉の鍵が開く”ガチャン”という音でよく目を覚ました記憶がある。それほど父の帰りが楽しみだったのだろう。どんな姿であれ父の事は好きだったし一緒に居られる時間は楽しかった。
ただ、そんな時間も決して多い訳ではなく、ほとんど祖父が父親代わりで休みはほとんど祖父の家で車のプラモデル等を作って過ごした。
祖父は凄い人だった。地元の大きな造船で船を造る職人で腕も凄く、多くの仲間から慕われていた。数々の逸話も残っている。そんな祖父は僕が高校に入る前に亡くなったが、小さい頃からいつしか祖父のようになりたいと思っていた。
やがて僕は中学生となり思春期が訪れる。良く暴れ、父とも良く喧嘩をした。家の事を母に任せ仕事しかしていない父に憤りを感じていたのだろう。
そんな父は、祖父が亡くなったあたりで離婚し祖母のいる実家で過ごすようになった。そして数年後、僕が20歳の時に亡くなった。
それからというもの僕は手探りで生きてきた。ゆくゆくは祖父のように凄い人になりたいと思うがどうしたらなれるのかさっぱり分からない。結婚はしたし子供もできたし家も買ったが、仕事は上手く行かないし鬱にはなるし流行り病の後遺症で死にかけるし踏んだり蹴ったりだ。
だが、そんな時思い出すのは父の姿だ息子と十分な時間を過ごす事が出来ず今思えば可哀想だったが、それでも良いと一生懸命仕事をして僕らを守ってくれた。
身体がしんどいにも関わらず釣りに連れて行ってくれた。ヒトデが釣れたり新しいルアーが飛んでいったり。まともな魚が釣れた記憶はないが楽しかった。
運転がとても上手く、よくドライブにも連れて行ってくれた。王子ヶ岳や金甲山、岡山城、神戸、色んな所へ連れて行ってくれたり、児島湖沿いの美容院まで毎月のように散髪に連れて行ってくれた。
そんな父と過ごした何気ない時間は10年ほど経った今でも僕の宝物である。
今日持って帰った黒いメタルフレームにボシュロムのガラスレンズのレイバンのティアドロップは父が車に乗る時にいつもかけていたものだ。今まで自分には似合わないと思っていたが30歳になる年だし、そろそろかけることができるだろうと思ったのだ。
出来る限り手入れをして身につけ、父がしてくれたように僕も息子と過ごす何気ない時間を大切にしていきたい。そう思ったのだった。
タイム トラベル ②
今日は気が向いたので前回の続き、急遽決まったドライブからだらだらと書いていこうと思う。
急遽ドライブに行くことが決まった僕は胸を躍らせながら帰りの児島行きの電車に乗り我が家へと帰った。そして支度をし、亡くなった父から受け継いだ紺色のファンカーゴ後期の運転席に乗り込み2人の女子の待つ岡山へとんぼ返りした。
空が薄暗くなった頃、無事2人の女子と合流し2人共後部座席に乗り込んだ。そして僕らのドライブは始まった。
ルートは生前、父がよくドライブに連れて行ってくれた岡山→岡南→渋川のルート。海、橋、児島湖、締切堤防等を楽しむことが出来とても贅沢。もし彼女が出来たら走りに行きたいとさえ思っていた。
無音の車内では寂しい。何時ものようにラジオでもかけよう。そう思い僕はオーディオのスイッチに手を伸ばした。時刻は夜8時。チューニングはFM OKAYAMA 76.8 そして番組は何時も上質な時間を過ごさせてくれるユキ・ラインハートのA·O·R。すべては完璧だと思った。この時までは。
忘れもしないその日は水曜日。番組の特集は60's to 80's 時々 90's songs of japan。80年代の男性アイドルが”ジャンジャンジャン”とか言って元気に歌っている。僕の顔は真っ青。地獄だった。僕の中ではJAZZとかR&Bが流れる予定だったのに。
急いで後部座席からCDを漁り、当日お気に入りだったm-floのアルバムをかける事にした。何とか明るい雰囲気になり事無きを得た。
車内で何を話していたのかは正直覚えていない。他愛もない話をしていたのだろう。ただ、クッションを抱き時折笑顔を見せるショートカットの大人しくて可愛らしい女子のバックミラー越しの笑顔が印象的だった。
そして無事渋川の海岸に辿り着いた。車を降りた僕はおもむろに父の形見のzippoで今は無きPEEL Sweet Melonに火を着けた。”タバコなのにいい匂いだね。”とサブカルチックな女子に言われた。その時僕はきっとドヤ顔をしていただろう。
その日はどうやらショートカットの可愛らしい女子の誕生日だったらしくHAKUJUJIのホールのチーズケーキを食べることになった。ただフォーク等が無く僕は愛車をかっ飛ばし最寄りのFamilyMartに買いに走った。
無事に戻り妙にカラフルなフォークでチーズケーキを食べた。
自販機でジュースを買い、僕ら地元民の教習コース鷲羽山スカイラインで夜景を見て彼女らを送り僕は家へ帰った。
この日はたまたまドライブに行くことになった訳だが、まさか気になる女子の誕生日だったなんて。そしてA·O·Rから流れてきたのが邦楽特集だったなんて思っても見なかった。これも何かの運命だったのかも知れない。
そして彼女が”やっぱこれだよね”と言いながら自販機で選んだのが”力水”だった事が衝撃的だった。ちょっと不思議でそこがまた可愛い。そんな彼女の魅力を感じた10年ほど経った今でも忘れられない楽しいドライブだった。
タイム トラベル ①
今日は、気が向いたのでタイムトラベルをして奥さんと出会った時の事をただだらだらと書いてみようと思う。
あれは、確か2013年。驚く事に僕がハタチの頃だ。僕は、専門学校生でありながら主に大学生が参加する地元の大きな祭りの運営に携わり調子に乗っていた。
その年の祭りの打ち上げで見覚えの無い2人組の女子を見つけた。パーマを当てたサブカルチックな女子とショートカットの大人しくて可愛らしい女子。当日参加したスタッフのようだった。
僕は、その2人のうちのショートカットの大人しくて可愛らしい女子に心を奪われ何とか仲良くなりたいと近くの席に移ることにした。
何とか移動し会話に持ち込んだが目を見て相づちを打ちながらとても気持ち良い反応をしてくれたのはパーマを当てたサブカルチックな女子。残念ながらそっちではなかった。僕の悪あがきも虚しくそのまま打ち上げは幕を閉じた。
楽しい夏も終わってしまい、それからしばらくどこか心にポッカリ穴が空いたような日々を過ごしたのであった。
そして迎えた2014年。祭りの新しいシーズンが幕を開けた。僕も3年目となり一旗揚げてやろうと意気込んだ。より一層調子に乗った僕は学生のトップ、部会長という役割りを買って出た。そして祭りを盛り上げようと積極的にメンバーに連絡を取る。幸いな事にその中には昨年の女子2人組の名前もあったのだ。
5月21日。バイトが休みで暇を持て余した僕は、なぜかよく連絡を取っていたサブカルチックな方にその事を伝えた。すると2人共暇だったようで急遽僕の車で3人でドライブをすることが決まった。
オートメッセに行く ②
黄色いダッジ・チャレンジャーの洗礼を受けた僕らは引き続き会場を回った。
バチバチのツラと車高の改造車の数々。身をかがめスカートを覗くようにフェンダーを覗くと絶妙に当たっていない。サスペンションやアーム、ホイールを駆使し仕上げた改造車達はさながら芸術品のようだった。
次に僕らの目に飛び込んできたのは日本を代表するカスタムショップのブースだ。日の丸カラーの戦闘機のようなFerrari F40、バックで流れるMy Life Be Likeそこはまるでワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFTの世界だった。この世にはこんな世界もあるんだなと思った。
それからもブースを巡るウォークラリーは続いた。街道レーサーや、V8エンジンとデカいタービンを換装したおかげでラジエーターのスペースが無くなりトランクぶった切って載せたドリ車など僕らの目を飽きさせなかった。
それから数時間、やっとの思いで辿り着いたFerrari 488 Spiderその存在感は半端ではなく王者の風格が漂っていた。僕らはこれを見に来たんだなと改めて思った。
満足した僕らは会場を出るため足早に歩き始めた。
そして、最後の最後に向かったのはTOYOTAのブース。話題のEVハチロクもあったが僕を一番感動させたのはオプションのリップスポイラーとサイドスカート、えげつない深リムのSUPER R·A·P、光り輝く4連キャブのAE86後期だった。この車が良い〆となった。
今まで自分の”好きなモノに対する情熱”を忘れかけていたが、このAE86がそれを思い出させてくれたような気がした。小学生の頃、同級生の家でゲームをしていなければ、この車に出会っていなければ僕は整備士にはなっていなかっただろう。
大親友も小学生のころテレビでサーキットを走るFerrari F40を見ていなければ車好きにはなっていなかっただろうと言っていた。
峠を走る走り屋の車、サーキットを走るスーパーカー。ジャンルは違えど互いに車を好きになっていなければこんなに仲が良くはなってはいなかったかもしれない。
僕らの原点に立ち返るような素晴らしい大阪の旅だった。これからも僕は自分の好きなモノに情熱を注ぎひたむきに歩んでいきたいと思ったのであった。